東京オリンピックが昭和の一つのクライマックスだった

1964年開催された東京オリンピックはアジアで初めて開催され、勿論日本にとっても初めてで、夏季オリンピックとしては唯一の国内開催のオリンピックです。オリンピックの開催はいろいろな意味が有る事でした。もちろんオリンピックは言うまでも無く、世界的なスポーツの祭典なのですが、日本にとってそれは、敗戦から歩み始めた平和の道を象徴する意味も有り、経済復興した日本の姿を世界中にアピールする意味合いもあったのです。経済効果も非常に見込まれる大イベントですから、国内中沸きに沸いて後押ししたのですが、それまでにオリンピック開催の為にいろいろ整えなければいけない事も有りました。

会場となる国立競技場の建設などから始まり、選手村・宿泊施設もそうですが、道路の拡張整備・交通機関として東海道新幹線の開通もこのオリンピックに間に合わせるようにと急ピッチで作られたのです。高度経済成長真っただ中という事も有りましたが、日本の経済成長に更なる活気を与え、東京オリンピックを目指して日本中が団結してその準備に掛っていったのですね。中でも一番の難事業は東海道新幹線の開通でした。技術的にまだ高度な電車製造の経験が無く、工業的にもとても先進国とは言えなかった当時、世界最速の電車を自国で作るという話を国内どころか世界中が信じていませんでした。

また建設費用も莫大な物で当時で4000億ぐらい掛かったと言われ、当時の物価は現在の1/10程度でしたから、国としても巨額投資案件だったのです。計画当初は半分の2000億弱の予算しか無く、増額に次ぐ増額で作られたのですが、額が額だけに、増額取付にもいろいろドラマが有ったようです。鉄道技術がまだ高速鉄道の技術・経験が無く、実験的な要素を多分に含んでいたことも建設費用の膨張の原因でした。しかしこの際に技術開発された新幹線に関わる様々な技術は、日本を鉄道技術の先進国に押し上げ、現在では外国に輸出できるような技術もこの頃開発されたものでした。結局新幹線が運航したのは、東京オリンピックが始まる9日前の10月1日でした。全てが東京オリンピックを標準にしていたのですね。

始めに書きましたが、東京オリンピックは当時の日本にとって戦後からの復興を世界にアピールできる格好の舞台でした。2020年の開催東京オリンピック誘致でも滝川クリステルの「おもてなし」スピーチが流行になりましたが、オリンピック誘致はその経済効果も含めて、各国が我が国へと、欲しがるものです。日本にとっても当時経済復興してきているとはいえ、外国に認められなければ自己満足にすぎないという劣等感みたいなものもあったでしょう。それを吹き飛ばすためにもこのイベントは絶対必要な物だったのです。

敗戦から10年以上経っても大戦中の軍国主義のイメージは中々拭えません。また本土が焦土と化した日本が10年、20年で立派に国に生まれ変わっているなんてやはり言葉だけでは誰も信じません。その後の貿易・国際交流も含めて、東京オリンピックを通して、いかに日本が平和で良い国に生まれ変わったか、という事をアピールする事は国の重要行事でしたし、実際、この東京オリンピックがその後の日本のイメージを変える大きなきっかけになったのでした。昭和39年10月10日、「日本中の青空を集めたような」というNHKアナウンサーの名文句でオリンピック開催を日本中が見ていました。日本の誇りを取り戻してくれたような気持にみんななったのです。