昭和後半のバブル時代が、日本のピークの終わりを予兆していた

振り返ってみますとよくあんな時代があったもんだと冷静に考えれるものですが、その当時は誰も異常な事とは考えない、時代ってそんなものかもしれませんね。バブル時代はまさにそんな日本が異常だった時代だったと今になれば冷静に考えられます。日本中誰もがバブル景気に沸いていいたような時代でした。いわゆる中流のサラリーマンが何百万、下手すれば1千万以上するゴルフ場の会員権を買うかどうか普通に悩んでいたような時代です。財テクなんて言葉も流行りましたよね。日本国民が全員投資に沸いていたんじゃないかと思えるほどです。

バブルは何だったのかという事についてはいろいろと専門書が出ているので詳しくはそういう専門書を見るべきですが、簡単に説明しますと産業発展・都市化による経済成長が順調で有った日本が今度は投資・投機によってより自分たちの財産を増やしていこうと躍起になったという事でしょうか。今まで一生懸命働いて日本をここまでにしたんだけど、もうこれからは今まで貯めた資本を元手に投資・投機を続けていけば将来安泰だ、というような気分に日本中がなっていたようですね。国中がそうなるにはそれなりの理由も有りました。

まず確かに1980年代、日本は成功をしていました。高度経済成長により経済大国第2位に躍り出て、それを支える日本製造業は、製品的にもメイドインジャパンとしてその高品質が賞賛され、経営的にもジャパンアズナンバーワンとして、その終身雇用制、家族経営的な部分が賞賛され、実績・実力共に確固たる成功を収めたように見えました。しかしその中で今まで外資系企業をあまり入れない保守的な制度を取っていたことが懸念として有ったのですが、それを解禁する動きが有り、企業は危機感を感じました。そしてそれに対抗して自分たちの資本を守っていく為、製造一本では無く多角的な経営もしていかなくてはならないという風潮が生まれていたのです。

一方日本政府は企業に投資する際の金利を低金利に抑え続け、投資を推奨するよな風潮を作り、また東京が今後ますます発展していくような政策も作成していました。そういう背景のもとで、人々はまずは土地に目を付けました。土地が今後値上がりを続けると読んだのです。そうすると今のうちに安く買っとけば、高く売れるという判断になります。また多角化を目指す企業は、例えばゴルフ場建設などレジャー産業などに乗り出し、ますます土地は今後値上がり続けるんじゃないかという気にさせます。つまり土地を始めとした不動産・いろいろな固形資産が今後値上がりをするから今の内に買っとけば得する、という錯覚にみんなが陥ったのです。それがバブルでした。

中流のサラリーマンが何百万もするゴルフ場の会員権や、株券の購入について昼飯時に話し合い、すべての中心になっていた東京では怪しい不動産が会社が乱立し、土地転がしの話を毎日していました。全員が羽振りが良くなり、1日の飲み代で何百万使ったていう話も珍しい話では無くなりました。ディスコは若者で連日賑わい、大騒ぎをしていました。学生でもお金を持ってて高級車に乗っていましたし、就職の心配なんてまるで無かったんで、今を楽しむ事、がかっこよかった時代でした。高級クラブではシャンパンに1本何十万の値が付けられ、それでも飛ぶように売れてたんですね。

今考えるとバブルが高度経済成長のピークでした。その後失われた10年と言われる下り坂の時代がやってきます。経済のピークが昭和の終わりで、そこからグローバリズムに飲み込まれる厳しい平成の時代に移り変わっていくのでした。

懐かしの昭和文化

昭和をテーマにしたテーマパークやテーマ館って結構あるみたいですね。昭和を普通に過ごしてきた人間からすると、懐かしさが半分有るとともに、なんか改まって展示をされると少し恥ずかしいような感じがするようなものまで有りますよね。でも改めて見てみると結構魅力的な物もたくさんあったなって思いますね。少年時代が昭和だった人は駄菓子屋なんてその最たるものとして思い出されるんじゃないでしょうか。近所に一つは駄菓子屋が有りませんでしたか?駄菓子とは良く言ったもので、安いお菓子ばかりですが、あのジャンクフード的な味が子供をとりこにしてたんですよね。

地域によって流行りものが違うようですが、うまい棒、ねり飴、モロッコヨーグル、ビッグカツ、などのメジャーどころ?は食べた事ある人が少なくないのではないでしょうか。モロッコヨーグルってわかります?あのちっちゃいヨーグルトみたいなやつですね。昔はあれがすごく好きだったんですが、大人になって食べたら懐かしさは有りますが、ちょっときつかったですね(笑)。製品の蓋や箱のところになぜかゾウさんが描かれているのですが、子供心になんでゾウなんだろう?って不思議に思っていました。でも大人になっっても懐かしくて箱買いしている人もいるようですよ。まだ売っている事にびっくりですが・・・。

駄菓子屋に入る時にあのワクワク感が良いですよね。20円か30円握りしめて店内をじっくりと見まわしていくとぎっしりと配列された駄菓子がどれも魅力的に見えてきます。子供だったからと言えばそれまでですが、あのワクワク感ってそんなに無いと思いませんか?また駄菓子屋は子供たちの交流の場所でもありましたよね。行けば必ず誰かが居て学校では話さない子とかと話したり、みんなでそのまま遊んだり、お金持ってる子がいろいろ買って分けてもらったり、なんというか子供なりに考えられた社会が有ったような気がします。

平成でも続いていますが、昭和の文化として外せないのはやはり漫画・アニメではないでしょうか?いまや日本を代表する文化みたいにもなっていますが、漫画やアニメが昭和の生活・文化に非常に根付いていたことは間違いないでしょう。学校にいけば必ずアニメや戦隊ヒーローものの話をみんなでしていたよう気がします。男性ならガンダムに代表されるロボット物は外せないでしょう。あの頃のアニメって今見ても結構ストーリーが重厚な考えさせられるようなものが結構ありましたよね。

平成になって実写映画化もされましたが「新造人間キャシャーン」ていうのもタイムボカンシリーズ(懐かしい!)でおなじみのタツノコプロが作成したもので有りましたが、内容がとても深いんですよね。ストーリーを簡単に言いますと、文明が発達して公害を引き起こすようになった世界が公害駆除用のロボットを発明するのですが、そのロボットが思考回路を持つようになり、そうすると、公害の一番の元凶を絶つことが一番効率的で有り問題解決になる事に気付き、その元凶である人間を排除しようと考え人間の世界を征服していくというストーリーなんです。それに対抗して人間の味方になる半分人間・半分ロボットのキャシャーンがロボットと対決する物語なんですが、いろいろ考えされられちゃいますよね。

少年ジャンプ・マガジンといった少年誌も代表的なものですよね。月曜日は学校帰りにジャンプを立ち読み、何てことが習慣になっていたい人も多いはずです。もっといろいろ紹介をしていきたいのですが、駄菓子屋と漫画・アニメに私なんかは昭和を一番感じる気がしますね。

美空ひばり・長嶋茂雄・石原裕次郎・昭和のスター達

時代が違えば単純な比較はできないのですが、昭和のスターって正にスターと言える存在だったと思いますよね。国民全員が知っていて、国民全員がスターって認めるスターが確かに存在していたという意味でですね。例えば芸能で言えば美空ひばり、野球で言えば長嶋茂雄、王貞治、プロレスの力道山、みたいな存在です。現代にそういう存在を見つけるの難しいと思います。それも昭和という時代の一つの特徴なのではないかと思います。みんなが同じ方向に向いていたから楽しむものや嗜好なども同じだったのではないでしょうか。ある意味幸せな時代ですよね。

もちろん初めに話したようにそれは単純に比較できるものでは有りません。メディアが未発達であった事や、生活の中での楽しみが限られていた事や家族構成なども関係してくるでしょう。現在のように多くのメディアから多くの情報が発信され、芸能・スポーツのジャンルも多角化され、人々の生活も多様化された現代では、個人の嗜好に合わせた娯楽が提供されてますので、国民的スターというのは生まれにくい環境になっているという事が大きく影響していると思います。

テレビを付けたらジャイアンツ戦、プロレスで力動山が戦っているという時代ですから、みんな応援してある意味当たり前ですよね。長嶋茂雄選手はいろいろなエピソードで有名ですが、やはりファンサービスに徹していたというのがあそこまで大スターになった要因ではないでしょうか。試合が負けたり、チームが低迷している時でも長嶋のプレー見たさに球場に行ったり、テレビをじーっと見ていたりしていました。打つだけでなく、守備一つとっても華麗な感じがして、後々の回想で簡単な内野ゴロでもわざとちょうど間に合うようなスピードで走ってたりしていそうですよ。「魅せる」という事をわかっていた人だったんですね。

長嶋選手の引退スピーチも印象に残っている人が多いのではないでしょうか?{巨人軍は永遠に不滅です。」という有名な言葉を昭和で一番印象に残っている事として挙げ、あの瞬間に一つの昭和が終わったと感じた方も多いようですね。力動山も間違いなく、スターと言える1人でしょう。空手チョップで外人レスラーをバタバタとなぎ倒していく姿は、まだ自信の持てなかった日本人に大きな勇気をもたらしてくれました。プロレスがショーという部分も有るという事を知らなかった私なんかは、八百長かどうか良く友達と議論をしたものです。

スポーツ界でも昔のスターは、なんか今より懐が広い感じがしますよね。ゴルフ界の青木功やジャンボ尾崎、プロレスのアントニオ猪木、ジャイアント馬場、柔道で無差別級でオリンピック金メダルを量産した山下泰裕なんかは文句なしにスターでした。オリンピックという公平な競技の場で体格で不利な日本人が無差別級で金メダルを取る姿は日本人全員の心を打ちました。今ではなかなかそういう選手は生まれないよう気がします。

芸能界でも、石原裕次郎、美空ひばり、北島三郎、高倉健などスクリーンを彩ったスターはちょっと違う人種のような気がしました。私生活も謎に包まれている人も多くてそういうところもスターに魅せていた秘訣かもしれません。

メイドインジャパンが世界を席巻した時代

日本が大幅な高度経済成長を達成できたのも、戦後復興から都市開発や三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)に代表される生活用品の大変動などの「内需」が有ったことも一つの要因ですが、輸出による外需獲得が大きかったことは外せません。現在の経済大国日本を支えているのも貿易に拠る所が大きいのです。そしてその外需獲得の立役者が製造業であり、その高品質から、日本製品が「メイドインジャパン」としてブランド化していった事がその要因でした。

製造業を中心に経済復興を考えていた日本は、国がその発展を後押しをしたという事も有りますが、それと共に、日本人が持つ「ものづくり」に対するモチベーションの高さ、創意工夫や団結力が日本独自の製造業を造り上げていった事が大きいと言えるでしょう。特にその技術、製造工程が注目されたのですが、その代表格と言えるのが電化製品のソニー、自動車のトヨタ、ホンダでした。その中でもソニー・ホンダは、戦後小さな零細企業から地道な研究、技術やアイデアで世界企業まで築き上げた高度経済成長時の代表企業だったのです。

戦後日本は工業において諸外国から技術的にも設備的にも大きく差を付けられ後進国でした。日本製品で輸出できたのは繊維工業ぐらいなもので、後はコストの安さで勝負できるぐらいのものでした。ソニーはポータブルラジオ・ウォークマンで世界中に名を知らしめたメーカーですが、やはりそれも技術・アイデアによるものでした。特にポーラブルラジオの機能性・性能がNASAで評価され、宇宙飛行でそのポータブルラジオが使われた事がそのきっかけとなりました。世界最先端の技術が集まる宇宙飛行でメイドインジャパンが使われたことは当時、日本に強い自信を与えてくれたのです。

またウォークマンが世界中で大流行したこともメイドインジャパンを広く知らしめるきっかけにもなりました。現在でも日本製は高品質で世界中で知られていますが、まずは電化製品の分野でそれは広まっていったのです。メイドインジャパンが海外で売れるという事が国内での産業に与えた影響が大きく、技術開発や設備投資に資金を投じるきっかけとなったのです。

ホンダは良く知られる逸話として、官僚主導の経済政策に真っ向から反抗して自動車産業に乗り込んだ、というのが有りますが、この「ものづくり」をベースにした企業家精神というのが実に日本人好みの逸話なのではないでしょうか。当時経済復興が段々と成され、産業も形ができてきたとはいえ、自動車産業はアメリカのお家芸で有り、日本の自動車など話にならないというのが常識でした。自由貿易を解禁しようとしていた日本政府はその中で発展途上である日本の自動車産業が海外勢に飲み込まれてしまう事を恐れて自動車メーカーの数を絞って、選抜されたメーカーを国として後押しする事で日本の自動車産業を守ろうとしたのです。

しかしホンダの創始者である本田宗一郎氏はそれに真っ向から反対し、法的な規制が掛かる寸前に自動車産業への進出に乗り出したのです。政策を推し進める官僚たちから強い反発が有りましたが、それに屈する事無く、やり遂げてしまったのでした。そこには本田氏のものづくりに対して、製品の魅力・品質で勝負して負けなければ決して海外製品に飲み込まれる事は無いという確固たる信念が有ったのです。

もちろん日本の産業発展に行政主導の成長戦略が有ったことは確かですが、その根本にはものづくりに対する熱い日本人の企業家精神が有ったという事でしょう。

今の中国にも全然負けていない、壮絶日本の公害の歴史

現在高度成長を遂げている中国では公害の問題が良く取りざたされますよね。2014年の10月に行われた国際北京マラソンでも北京市内を覆うPM2.5のスモッグが酷くリタイヤが続出したなんて事も報道されていましたが、いまや中国は公害大国になってしまい、今の日本からすると信じられないニュースばかりです。そんな事が許されるなんて絶対におかしい、普通じゃ考えられないと思ってしまいますよね。でも実は日本もそれに勝るとも劣らぬ公害大国だった時代があるんですね。

高度経済成長期は日本を経済大国2位までに押し上げ豊かな暮らしを実現させるわけですが、その裏でその代償ともいえる公害事件が起きていたのです。その公害被害は甚大で、訴訟が半世紀近く経つ現在でも継続している者も有るんですね。そんな事が有った事自体信じられない現代でも当時の問題はまだ解決されていない事もあるのです。公害事件として有名なのは、いわゆる4大公害事件の「四日市ぜんそく」「熊本水俣病」「イタイイタイ病」「新潟水俣病」ですね。これらの発症は日本の高度経済成長期に集中していました。

その中でも特に有名な「熊本水俣病」は熊本県水俣にある化学製造業のチッソの工場から排出される廃液がその原因となっていました。今ではその原因も解明されている為、公害と認められ、訴訟となっている訳ですが、当時は原因不明の病気として扱われ、病気にかかった人が差別されてしまうような事態も発生したいたのです。まず現在解明されている水俣病の原因からお話ししますと、これは工業廃水に含まれるメチル水銀が海にそのまま排出され、それを体内に取り入れた魚介類を口にした人へと移り、水銀中毒症状を引き起こすというものです。

水銀中毒の主な症状は神経系が全般的にやられる為、聴覚・視覚が衰えたり障害を受けたり、手足のしびれや、言語障害・平衡機能障害など、普通の生活もできなくなり、重症になると普通に立っている事も困難になるのです。こういった症状を訴える人は昭和28年頃から発生していたと言われています。しかしまだ当時は少数であったのと原因が不明な為、原因不明の難病扱いされ、周りの人から差別を受けてしまうという状態でした。しかし経済成長に連れ工場稼働率も高まり被害者も増えていきました。そして原因がチッソの工場排水にあるのでは、と調査に乗り出したのは昭和32年頃でした。

しかし当時経済成長を推し進めていた国は、企業保護の姿勢を取っていて、この調査に対してなかなかその事実を認めませんでした。確固たる証拠がなかなか見つからなかったというのも有りましたが、訴訟は長期化し、10年以上も被害者は放置された状態となってしまいました。ようやく判決が出てチッソの過失が認められたのは昭和43年になってからでした。その間、地元での争いも起きてしまいました。チッソや工業系の会社に勤めている人は、やはり公害の事実を認めなく無かったですし、工業が衰退すれば街そのものが以前の産業が無い貧しい状態に戻るのじゃないかという危機感が有ったからです。

その他の公害についても似たりよったりの現象が起きました。大きな工場は街にそれだけ大きな利益をもたらしてくれたのです。経済復興に沸き、それが自分たちの生活を豊かにしてくれているという事実の前で、それに冷や水をかけるような事実には目をつぶりたいというのがみんなの本音に有ったのでした。しかしその後の長期に渡る地道な対策は日本を公害対策の先進国にしてくれたのでした。

70年安保・学生運動、若者が闘争した時代

日本は再び政治の時代を迎えます。今度は若者、特に学生たちが主人公です。安保闘争には60年安保と70年安保が有りますが、70年安保は学生運動と結びつき、より先鋭、過激な運動となっていくのです。日本が生んだ国際的なテロ組織「日本赤軍」もこの時作られ、その影響は近年まで続きます。この学生運動・政治闘争で学生たちが組織したいくつかは、国家権力と本当に闘い、日本警察の公安も乗り出すものとなります。まだ日本で「革命」を起こそうとする動きが有った時代なんですね。

この背景には冷戦という大きな世界情勢が有りました。まだ世界が資本主義VS共産主義という大きな構図で成り立っており、表だって主要国同士が戦争を起こす事はありませんでしたが、その主権争いは勢力争いとして、途上国を舞台にしばしば顕在化したのでした。資本主義・民主主義代表として「世界の警察」になろうとしていたアメリカがその大国の力でアジア圏に大きな影響を及ぼしていたのですが、抵抗勢力もアジアの中ではたくさん有りました。日本はアメリカ追従の姿勢を取っていましたが、それに反発した若者達がその敵国共産主義のバックに抵抗を始めた、というのが大まかな背景です。

政府・国家権力への抵抗というのが若者たちの本分だった訳ですが、この冷戦下という状況の中で、自然、政府=アメリカ追従に対する為、共産主義への加担がその道筋になったのです。またそうする事で、ソ連・中国と言った後ろ盾も得られる事で、学生たちが実行力・戦力を持ち得る事にも繋がったのでした。実際、警察の公安などがこの学生運動対策として深く関わっていたのも、この共産主義の動きを恐れていての事だったんですね。こうして日本でも安保闘争という形に変えて、資本主義VS共産主義という冷戦構造がそのまま代理戦争として再現されていたのです。

もう一つ大きな事件としてベトナム戦争というものが有りました。1970年代の世界的に一番大きな事件と言っても過言では有りませんが、これは冷戦構造下で行われた一番大きく、被害も甚大で有った戦争と言って良いでしょう。この戦争もまた体面上は、ベトナムの民主主義を掲げる新政府をアメリカが助けるという形を取った、資本主義VS共産主義の代理戦争でした。この戦争で世界が衝撃を受けたのは米軍がベトナムの村々で行った虐殺事件でした。世界の警察と言われたアメリカが一般人を虐殺したという事がその後のアメリカへの不信に大きく影響したのです。

しかし日本の若者が一番衝撃を受けたのは、その事よりもむしろ、それに対して日本政府が何もアクションを起こさなかったという事でしょう。当時の学生運動が極度に過激化していったのは、冷戦下の世界情勢が背景に有ったという事も有りますが、政府・社会に対する不信が極度に高まり、自分達が変えなければいけない、という所までその不信が高まってしまった事に有るでしょう。この当時組織された全共闘という組織は様々な形で全国の若者たちを巻き込み、いくつもの流派を派生していったのですが、一部の過激組織はテロ組織へと変革を遂げていき、いくつものテロ事件を起こす事になるのです。

学生運動の象徴で有った事件としては「安田講堂事件」といって東大生が、東大の安田講堂を占拠して自衛隊と戦う事件が有りました。過激派の連中は連合赤軍というテロ組織を作り、革命政府を作る為、ハイジャックを起こします。有名なよど号ハイジャック事件で、これは日本初の航空機ハイジャック事件となります。また過激派の連中が内部でリンチ殺人事件を起こし最終的に浅間山荘で人質をとり立て籠もる浅間山荘事件というのも有りました。

懐かしい「サザエさん」の時代

映画「ALWAYS三丁目の夕日」が高度経済成長期を遂げる昭和30年代後半を舞台にしていた事はお話しましたが、他にも「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」など国民的漫画といっていい作品もこの頃を舞台にしているものです。平成24年現在ではもう半世紀も昔の事ですよね。それを舞台にした漫画がアニメ化され、現在でも間断なく放映され、人気を集めているというのはちょっとした驚きですね。それもどちらとも物語中心というよりは普段の生活描写をベースとしたものです。作者独特の鋭い視線がそこに有る事はもちろんですが、その時代背景というのも人気のポイントとなっているのではないでしょうか?

「サザエさん」は実は新聞連載の4コマ漫画がその原作なんですね。漫画連載が始まったのが昭和20年の終戦後すぐの時代でした。初めは作者の長谷川町子さんが福岡にいたので舞台も福岡だったんですが、途中で東京に引っ越したので、そのまま舞台が東京に移ったんですよ。そこからテレビアニメになったのは昭和44年と、かなり遅い時期でしたが、それが今でも続いているという事ですから、原作含めると戦後の日本を一貫して、その生活を描いてきた作品でもあるんですね。

でも一番舞台の中心となっている時代は昭和30年~昭和40年代ようです。家族構成・家庭内の風景にもそれは色濃く出ていますよね。サザエさんの旦那さんであるマスオさんは、婿養子の代名詞で定着していますし、「サザエさん」の家族は当時の日本の家族を代表していたものだったんですね。サザエさんに良く出て来る風景として近所の人が不在の時に、郵便物を預かったり、頂きものが有ったら、お裾分けするなど、現代の家庭ではなかなか出来る所が少ないのではないでしょうか。プライバシー問題なども有りますが、信頼関係による垣根の低さが昭和の生活の魅力だと思います。

生活の細々したところでいうと、仕事では週休2日制を取っている所は珍しく、週1日日曜日だけので休みの会社が多かったですよね。また携帯電話なんてものも無かったですから待ち合わせで場所と時間を間違えて待ちぼうけ、みたいな事も良く話で出てきましたよね。公衆電話に行列が出来て、あまりの長電話に怒って傷害事件が起きた何て事件も有りました。テレビのチャンネルもリモコンなんて無く、テレビに取り付けて着脱可能でしたので、そのチャンネルの取り合いが殺人事件になったなんて事件も世の中を騒がしました。まあその時代なりの問題もあったんですね。

ウイスキーなんかも高かったですね。贅沢税と言って舶来品(海外製品)の高級品には税金が高く掛けられていたんですね。ヘネシーやレミーマルタンなんていうブランデーも今では多少高いにしても誰でも買えちゃう値段ですが、その頃は中流のサラリーマンでも高くて簡単に手の付けれらない品物でした。入れる時に(高級品なので)手が震えるなんて話を良く聞きました。

昭和41年ビートルズが初来日し、武道館でライブを開きます。この時から武道館はミュージシャンの夢の舞台・聖地になる訳ですが、ビートルズは日本の文化に大きな影響を与え、特に若者に与えた衝撃はとても大きかったようですね。まだまだ文化的に日本は遅れていて、これから何でも新しい事がやれるっていう雰囲気が有ったのではないでしょうか。当時青年時代を送っていた人が良く言う言葉ですが、あの頃はみんな貧乏だった、でもみんな貧乏だったんで、それが少しも恥ずかしくなかった。お金が無い時に貸したり借りたりするのもごく当たり前の事だったんですね。それはそれで羨ましい事だと思いませんか。

東京オリンピックが昭和の一つのクライマックスだった

1964年開催された東京オリンピックはアジアで初めて開催され、勿論日本にとっても初めてで、夏季オリンピックとしては唯一の国内開催のオリンピックです。オリンピックの開催はいろいろな意味が有る事でした。もちろんオリンピックは言うまでも無く、世界的なスポーツの祭典なのですが、日本にとってそれは、敗戦から歩み始めた平和の道を象徴する意味も有り、経済復興した日本の姿を世界中にアピールする意味合いもあったのです。経済効果も非常に見込まれる大イベントですから、国内中沸きに沸いて後押ししたのですが、それまでにオリンピック開催の為にいろいろ整えなければいけない事も有りました。

会場となる国立競技場の建設などから始まり、選手村・宿泊施設もそうですが、道路の拡張整備・交通機関として東海道新幹線の開通もこのオリンピックに間に合わせるようにと急ピッチで作られたのです。高度経済成長真っただ中という事も有りましたが、日本の経済成長に更なる活気を与え、東京オリンピックを目指して日本中が団結してその準備に掛っていったのですね。中でも一番の難事業は東海道新幹線の開通でした。技術的にまだ高度な電車製造の経験が無く、工業的にもとても先進国とは言えなかった当時、世界最速の電車を自国で作るという話を国内どころか世界中が信じていませんでした。

また建設費用も莫大な物で当時で4000億ぐらい掛かったと言われ、当時の物価は現在の1/10程度でしたから、国としても巨額投資案件だったのです。計画当初は半分の2000億弱の予算しか無く、増額に次ぐ増額で作られたのですが、額が額だけに、増額取付にもいろいろドラマが有ったようです。鉄道技術がまだ高速鉄道の技術・経験が無く、実験的な要素を多分に含んでいたことも建設費用の膨張の原因でした。しかしこの際に技術開発された新幹線に関わる様々な技術は、日本を鉄道技術の先進国に押し上げ、現在では外国に輸出できるような技術もこの頃開発されたものでした。結局新幹線が運航したのは、東京オリンピックが始まる9日前の10月1日でした。全てが東京オリンピックを標準にしていたのですね。

始めに書きましたが、東京オリンピックは当時の日本にとって戦後からの復興を世界にアピールできる格好の舞台でした。2020年の開催東京オリンピック誘致でも滝川クリステルの「おもてなし」スピーチが流行になりましたが、オリンピック誘致はその経済効果も含めて、各国が我が国へと、欲しがるものです。日本にとっても当時経済復興してきているとはいえ、外国に認められなければ自己満足にすぎないという劣等感みたいなものもあったでしょう。それを吹き飛ばすためにもこのイベントは絶対必要な物だったのです。

敗戦から10年以上経っても大戦中の軍国主義のイメージは中々拭えません。また本土が焦土と化した日本が10年、20年で立派に国に生まれ変わっているなんてやはり言葉だけでは誰も信じません。その後の貿易・国際交流も含めて、東京オリンピックを通して、いかに日本が平和で良い国に生まれ変わったか、という事をアピールする事は国の重要行事でしたし、実際、この東京オリンピックがその後の日本のイメージを変える大きなきっかけになったのでした。昭和39年10月10日、「日本中の青空を集めたような」というNHKアナウンサーの名文句でオリンピック開催を日本中が見ていました。日本の誇りを取り戻してくれたような気持にみんななったのです。

奇跡と言われた高度経済成長で日本は復興したのです!

日本人の特質というか、美徳というか、良い所がどんどんと国自体の成功に繋がって開花したのが高度経済成長の時代ではないでしょうか。戦争と占領下、政治の混乱という時期を経て経済成長によって国が平和に豊かに向かっていく時代というのはやはり「明るい時代」と言えるでしょう。しかしその奇跡的な復興・経済成長が出来たのはやはり日本人が持つ、特質、美徳が根底に有ったのではないでしょうか。ものづくり日本、というフレーズが日本復興のキーワードとして最近また使われていますが、「ものづくり」での才能が大きく開花した時代でも有りました。

現在でも世界を代表するメーカーである、トヨタやホンダ、ソニー、といった製造メーカーはこの頃に躍進した企業でした。その創業物語は今でもいろいろな形で語られ、日本人の心を捉えています。ものづくりに懸ける想いや、その拘り、執拗にも思える持続性や、一致団結する団結力は日本人の美徳して語られます。確かにそういった特質が前述したメーカーを一大企業に押し上げた要素で有った事はいくつもの書物で語られています。日本国内で無数のそういった成功物語が生まれた時代でも有りました。

日本中が経済復興に沸いたのですが、そのクライマックス・シンボルとなったものが、東京タワー・新幹線・東京オリンピックだったのです。経済復興と同時に着々と変わっていく都市の風景が、これから日本が変わっていくんだ、という事を実感させたんですね。2005年に公開された映画「ALWAYS三丁目の夕日」は大ヒットを記録しましたが、舞台となったのは昭和33年の東京でした。この年の10月に竣工された東京タワーが出来上がっていく姿が映画の中でも見られましたよね。現代とは違った素朴さが街並みや生活に色濃く表れている感じがその当時を知らない世代にも何か懐かしさを感じさせたのではないでしょうか。

この年大衆車の走りともいえるスバル360が発売され、テレビも普及し始めて、段々と国民生活の中に電化製品や車などの機器が出現するに様になり、生活自体も新しい時代が来ることを予感させた希望の時代でもあったのです。とはいえ、まだテレビも何軒かに1台しかなく、近所にテレビを見に行く何てことも当たり前に行われていた時代で、まだ近所付き合いという共同体の有る時代だったんですね。この後の急激な経済発展で大型団地・核家族・一人暮らしが増え、段々プライバシーが作られると同時に近所付き合いが無くなっていく時代に移り変わっていくんですね。

安保条約を締結して辞職した後に就任した池田首相は、着任早々、「所得倍増計画」という当時の国民は誰も信じなかった政策を打ち出しましたが、段々と成長経済に移っている日本経済に、政府から太鼓判が押され、後押しされたわけですから、投資・投機をする企業も増え、国内が挙ってこの経済成長に参加をしたので、その成長率は当初の予想を超えたものになり、正に奇跡の高度経済成長と呼ぶに相応しい復興を遂げたのです。現在の製造業を中心とした貿易立国としての経済大国日本はこの時に形造られたんですね。

労働力も足らずに、若者たちは貴重がられ仕事も困る事は有りませんでした。都心では東京タワーが建設され、みんなデビューしたばかりの長嶋茂雄選手に注目し、テレビの有る家に集まり、休日はエアコンも効かないスバル360に乗り合わせでドライブに行くというのが庶民の充実した生活でした。昭和の一番輝いている時代が来ていたのです。

政治の時代!安保闘争で日本中が過熱した

今では国民の政治離れがTVで取り上げられるほど、日本国民は政治に関心を抱いていない事が問題視されていますが、昭和のある時期までは、日本国民は非常に政治に深い関心を抱き、政治活動にいろいろな形で参加していました。特にその政治的関心がピークに高まり、過熱したのは安保条約締結の時で、連日デモ隊が国会に押し寄せるなどの大騒動となり、「安保闘争」と呼ばれるものに発展したのです。安保闘争には文化人が紙面などで論争するに留まらず一般国民がデモ隊を組織するというように、国中がその動向に注目していたのですね。

その問題の中心となったのが安保条約(日米安全保障条約)でした。今でも日本国内のいくつかにアメリカ軍の基地が存在しますが、これも日本がアメリカ軍の力を借りてアジア県内での安全を確保してもらうという安保条約の内容に沿った形で存在しているのです。経緯を知らない現代の人は何でアメリカ軍を国内においてまで守ってもらう必要があるのか?と思うかもしれませんが、当時日本はまだ自衛隊もできたばかりで国防という認識は有りましたが、特に当時の大国ロシアなどに侵攻された時、守る力が無い事は確かでしたので、アメリカの軍事力という傘の下に入る必要が有ったわけです。

その安保条約がどうして問題になったかというと、その条約の中に、有事(戦争が起こった時など)には自衛隊が米軍を支援するという内容も含まれていたからでした。当時の日本国内では、政治・政策については様々な意見・認識が有りましたが、とにかく戦争はもう2度とやらない、というのが、共通認識として有ったと思います。条約の支援という内容が、アメリカが戦争したら、日本も巻き込まれる事が有る、という事も感じ取れる内容だったんですね。つまり安保条約反対といスローガンでデモ隊が組織されていた訳ですが、内容的には、「再軍備反対」「戦争反対」の内容がその中心に有ったわけです。

昭和30年の時代背景を少し見てみますと、昭和26年にサンフランシスコ講和条約でアメリカの支配下から抜け出た訳ですが、そこからは朝鮮戦争の特需も有って、経済的にもやや落ち着きを取り戻し、政治的も割と安定してきます。その後の日本の政治体制の基礎となる自民党が与党となり、対立野党として当時は社会党でありましたが、55年体制と言われる体制が出来上がり、戦後からやっと日本国内が落ち着きを取り戻してきた言える時代でした。昭和31年の経済白書に書かれた「もはや戦後ではない」という一言が当時の流行語となり、また時代を一言で言い表した言葉でも有りました。落ち着きを取り戻した日本国内が改めて、今後日本はどうしていくべきかという事に関心を持ち始めた時期と言ってもよかったでしょう。

政治に関心を集める事柄が他にもいろいろと有ったのですが、例えば、警職法、これは警察の職権を実質上げ、また政府が警察権力を握れるようになるものでしたので、当然反対運動が起こりました。また勤務評定法、といって学校教員の評定を政府で行うというもので、これも教育を支配下に置くものだとして非常に反発が起こりました。米軍基地問題も以前から有った関心度が高い問題でした。安保問題が一つピークとして有りましたが、いわば「政治の時代」であり、これから日本がどうなっていくかという関心が出始めていたという事も有り、国民の関心が非常に政治に向いていた時代だったのです。

当時の岸内閣が安保条約は強引に推し進め、最後には議会で可決する訳ですが、この可決の直後、岸総理は辞職して、経済復興の池田内閣の時代に移り変わっていくのでした。