今では考えられない壮絶な資本主義、その下での労働環境

現在では働くにも、人を働かすにもきちんと労働法が有り、例えばそこで労働時間の制限で有ったり、差別の禁止や、解雇に関する規制なども盛り込まれています。しかし日本において労働法がきちんと成立したのは戦後になってからであり、戦前においては工場法というものがありましたが、労働者の保護という観点からすると法律としては不十分なものでした。例えば昭和初期において労働者の最低年齢制限は14歳未満は禁止されていましたが、小規模工場は例外であったりとまちまちでした。

また長時間労働も現在では18歳未満の人に深夜労働・8時間を超える就業はさせられないという規則がありますが、当時は15歳未満の女子については12時間を超える就業、深夜労働はさせられないという条件でした。その条件も繊維業界からの猛反発を受け、実質機能していないという体たらくでした。最近では群馬県の富岡製糸場がブラック企業だったのでは?という疑惑が話題になっていましたが、富岡製糸場は当時、官が主体となって模範工場として運営した工場であり、労働条件も高待遇で、労働環境も進歩的で非常に良かったというのが事実のようです。

それよりも民間の工場の方が、その労働条件において、現在からみると非常に劣悪な条件だったようです。また当時は労働組合法などという法律も無く、労働争議は多々起きていましたが、それも適法ではなかったのです。また争議の鎮圧に、企業側も時として暴力団などを使った暴力行為で抑えていたという事例も多々あったようで、労働争議も命がけで行っている状況でした。この命がけで行う労働争議の労働者側からの要求の内容自体が、当時の労働環境・待遇の劣悪さを物語っています。

例えば有る紡績会社の労働争議における労働者の要求として、寄宿者の①近親者が病気または危篤なった時は帰郷させる②近親者との面会を自由にする③休日はもちろん、休日外でも外出を自由にする、などが有り、待遇面でも昼休憩は30分以上与える事、などと、今考えれると至極当たり前の事が命がけの要求としてあげられていたのです。労働条件が劣悪であったその背景としては、もちろん恐慌による不況などで企業側も困窮していたという事が有りますが、一方で企業利益を上げる為に労働者に関する費用を抑える必要が有り、法的な規制も無かったという事が挙げられます。

また当時資本主義も発展途上段階であり、そういう段階でありがちなのですが、資本家が労働者の生活など顧みず、利益確保に走っていたいという事が挙げられしょう。その挿話として、ある財閥の経営者が、賃下げを行う理由として、人間が1日に必要な蛋白量は30gであるから、米と豆腐だけ有れば良いのだからもっと賃下げができるという事を発言したという事が記録として残ってます。その通りの事を言ったのか真実は定かでは有りませんが、似たような感覚は当時の資本家たちにはあったのではないでしょうか?

戦争に突入してからは国家存亡の危機に有ったので、労働者の条件など顧みる余裕など無く、日本はもっと困窮した状況に陥れらるわけですが、労働者の条件の改善や法制定などは結局、敗戦によりアメリカの占領下、アメリカの進んだ資本主義・民主主義が導入されてからの事でした。この点で見ると国民が救われたのは敗戦に依る事を見ても良いので、なんか皮肉なものですね。