信じられない!日本にも昔はテロリストが沢山いた?

今ではテロリストというと、他の国の出来事のような感じがしますが、実は日本は昭和初期の段階ではいわゆるテロ行為というものが多くおこなわれていのです。そしてそれが2・26事件という軍事クーデターまで繋がる結果となるのです。2・26事件は軍事クーデターとしてあまりにも有名な事件ですが、それに至るまでに軍事テロも発生していますし、民間のテロ組織が起こしている事件も有ったのです。その背景を話しながら、民間テロの中でも一番有名な「血盟団事件」に繋げ話をしていきたいと思います。

まずテロ行為が行われた背景として当然、政治や社会への不満が有りました。その時代背景を見てみると、戦後恐慌・世界恐慌からくる経済の悪化がありました。その影響は工業にまず現れ、多くの企業倒産や大々的な賃下げなどに繋がり、失業者も溢れ出ました。また農村での窮乏はもっと厳しく、餓死者が出たり、口減らしの為に子供を売るような事まで日常的に行われた地域もあったようです。そのような国民全体が窮乏に陥っている中でも政治の腐敗は止まらず、賄賂収賄事件や利権を通した恫喝事件などが相次ぎ、国民の政治不信は極限まで高まっていったのです。

特にのちの軍事テロが横行した背景として、軍部の青年将校たちに農村出が多かったという事が有ります。農村で食い扶持の無い次男・三男坊などが職の当ても無く、軍部に入っていったという事情が有り、受け皿ともなっていたのです。軍部内で自分の境遇と同じような人たちと出会い、都市では同じような事情で売られて女郎になっている人たちと出会い実際に行われている政治の腐敗を目のあたりにして、世の中を変えなくては駄目だという共通認識を持って行った事が一連のテロ・クーデター事件の温床として有った訳です。

まず行動を起こしたのは民間の方でした。標的になったのは、経済界の大物や政治家です。昭和初期の資本経済はまだ現在のように労働法なども整ってなく、劣悪な労働環境や一方的な賃下げなどが罷りと負った時代でもありました。労働者が貧困にあえいでいるにも拘らず、生活を変えず、私腹を肥やす事に専念する資本家は労働者の敵でした。実際にこの頃の賃下げなどは恐慌の影響が有ったとはいえ一方的に行われ、解雇に関しても方が整っていなかった為、一方的に首にもできたようです。

その中で起きたテロ事件が「血盟団事件」でした。この事件は1932年(昭和7年)に起きた事件ですが、実際に時の大政党民政党の幹事長で有った井上準之助、大財閥、三井財閥の総師であった団琢磨がその標的となり、暗殺されました。無差別テロで無く、標的をあらかじめ決めた計画的なテロ事件で有りました。事件の中心となった血盟団という政治結社を組織していたのは井上日召という僧侶でした。彼は満州鉄道などで勤務後帰国し住職となっていたが、現在の世情を憂いている中、後の5・15事件の首謀者の一人である橘孝三郎などと出会い、暴力による社会改造以外に手段は無いという判断に至ったと言われています。

大物2名を暗殺して終わった事件でしたが、「一人一殺」と称し、他に当時の2大政党の重要幹部を標的にしていた事などは「テロ」という意味では非常に大きな成果を上げ、財界・政治家を大いに震わせました。この事件が不満を抱えた青年将校たちに与えた影響も大きく、その後の軍部クーデターの直接原因では無いにしろ、間接的な影響を与えたことは否めません。武力・暴力を使ってでもこの社会を変えていかなければならないという空気が蔓延しはじめていたのでした。