昭和はその幕開けから激動の予感に溢れていました

昭和は1926年から始まる訳ですが、その幕開けは、激動の時代が始まる前兆が十分に感じられる出来事がたくさんあったのです。まず大正から昭和に変わる時代は恐慌の時代でした。恐慌とは経済変動が大きく下降する事です。影響として物価が跳ね上がり、紙幣の価値が下落するという現象が起こります。この現象は人々の生活を非常に不安定にさせ、国民的な不安が社会に蔓延したのです。この恐慌の質の悪い所は、全世界で起きているという事でした。全体的に落ちているので恐慌から抜け出すようなきっかけをつかむ事が非常に難しいという事です。

恐慌の原因としては第一次大戦の終結が影響しています。戦争が終わったことは良い事なのですが、それまで戦争特需で戦争物資の製造などで工業が盛んになっていたのですが、それが無くなった為、需要減で工業が落ち込んでしまった事です。帝国主義が主流となっていたこの時代に、その恐慌が蔓延する事により、国々は更に、植民地を増やして少しでも自国の経済を保とうと領地を広げていく方向へと突き進むきっかけとなりました。もちろん日本も例外ではなく、帝国主義の列強と言える、欧米諸国・ロシアに負けないよう軍事国家として強化していく流れとなっていくのです。

その後、世界中が戦争となり、日本国中が無謀な戦争に巻き込まれていく事になるわけですが、昭和の幕開けから既にその予感はあったわけです。ではその幕開けを象徴するような事件をいくつか紹介していきましょう。太平洋戦争や、昭和初期の軍事政権になっていく、その過程を説明する時、その遠因や、その潮流の元になったものとして必ず出て来る事件で、「満州事変」というものが有ります。教科書にも必ず載っていますし、学校で習っているので皆さん知っていらっしゃるのではないでしょうか。

まず事件の背景として満州国と、関東軍が、一つキーワードとして出てきます。昭和初期を語る時欠かせないものですが、そこにも恐慌・不景気というものが大きく影を落としています。その不景気も地方の農村では本当に深刻で、餓死者が大量に出たり、子供を育てれないため、売りに出しているという事が日常的に行われているほど事態は悪化していたのです。満州国建国というのはその打開策として国を上げて国策として進められていた計画だったのです。つまり満州国は国内で職にあぶれ生活できない人達が満州国に職と生活を求めた希望の国だったのです。満州とは中国の北側・モンゴル地区に有り、ロシアの南下に対する緩衝地区ともなる要地でした。

そして軍隊も国内のあぶれた労働力を吸収する風呂敷になっていたのです。つまり満州国というのは国内の不景気で行き詰った空気を切り替える希望が託されたものだったのです。そういう背景のあった満州国で起きた事件が満州事変です。満州国建国と言っても日本単独でできるものでは無く、あくまで内地、中国の協力と了解を有る程度得る事が必要です。地方軍閥というものがその際、協力者として交渉相手となるのですが、邪魔な存在となった交渉相手を暗殺しようと電車爆破をしたのが満州事変の概要です。

その事変の主犯格こそ関東軍であり、関東軍が独自判断で勝手に起こした事件であったことが後にわかっています。国内の指令が行き届かなくなった関東軍の独走にこそ、その後の日本の軍事国家への邁進と軍事の独走・迷走に繋がる大きな要因となり、そしてそのきっかけとなるのが満州事変なのです。この後、日本国内でも軍がいろいろと事件を起こし、最終的にクーデターを起こす事になるのですが、その潮流を遡っていくと満州事変が有り、関東軍と満州国建国に繋がっていく訳です。