世界と日本が戦争1色になった時代

2・26事件という軍事クーデター事件は2月29日まで3日間続き、政府関係者の犠牲者も出たのですが、最終的には天皇からの一声が有り、内紛には至らずに終了しました。しかしこの事件の本当に与えた影響はむしろこれ以降の方が大きく、この事件以後、再発を恐れた政府や軍上層部はいざという時に軍部の言う事を聞いてしまう弱腰の政権になってしまったのです。昭和に入ってから軍事政権の色が段々と濃くなって行ってのですが、これを機にそのスピードが速まったと言っても良いでしょう。2・26事件での青年将校たちの歩みがそのまま軍事政権への歩みへと繋がっていったのでした。

昭和10年を過ぎると満州国建立を通して中国と対立してきた日本は中国との全面戦争に突入していく形となります。ここから昭和20年の終戦まではずーっとどこかで戦争を続けているという戦争1色の時代となっていきます。中国を巡ってロシアや中国での覇権を強めていたイギリス軍と戦い、当然中国とも戦争をしました。また東南アジアに領地拡大の為、どんどん進出していった日本は、もともとそこを植民地としていたヨーロッパ諸国の軍隊とぶつかることになります。当時日本がアジア諸国で唯一欧米・ロシアに軍隊で対抗できる勢力で有ったという事実も日本に引くに引けない姿勢を取らせていく事になるのです。

日本にとっては、アジアに乗り込んでくる欧米・ロシア諸国との、アジアを守る戦争でも有ったのです。また資源エネルギーという問題有りました。太平洋戦争がいかに無謀な戦争であったかを議論する際に良く出て来る話ですが、そもそも日本国内には欧米列強やロシアを戦争できるほどの資源エネルギーがなかったという話です。特に一番重要となる石油に関しては、ほとんど国内では取れず敵国となるアメリカから買っていたという事実がいかにこの戦争が無謀であったかを物語っています。

その為、日本はアジア諸国に資源エネルギーの確保をする為に領地拡大をしてかなければならなかったのです。戦争終盤に近付くにつれ戦争に使う金属が段々と不足して、最終的には国民が生活用品として持っている金属類やお金の鐘までも兵器用の資源として収集した事は有名な話ですが、そこまで日本の資源は尽きて、文字通り国を上げての戦争になっていったのでした。

昭和12年から始まった日中戦争をかわぎりにアジアを巡る覇権争いで欧米・ロシアとなし崩し的な戦争に突っ込んでいく訳ですが、ここから昭和20年の終戦まで日本にとっては泥沼のような戦争が続きます。第2次世界大戦と言われていたこの時代、戦争をしていたのはもちろん日本だけでなく、ほぼその当時主要な国々であったほとんどの国が戦争をしていた時代でも有りました。しかし1940年ごろになるとだんだんと世界大戦の構図もはっきりとして、後から見れば収束の予想図も見えてくる状況になっていきます。

工業力・産業力・情報力・軍事力など総合的な力を着々と付けてきたアメリカがその頃になると主役に躍り出てきたと言って良いでしょう。段々アメリカを味方につけていった所が有利な兆しを見始めていたのです。後々考えると実に戦略的にアメリカは戦後の覇権争いの事も含め、この大戦に加わり、その戦果を一番獲得したわけですが、その当時、その事に気付いているのは極わずかでしたし、日本はその流れを読むことができませんでした。

トータルすると300万人~400万人がその戦争の犠牲となったと言われています。しかもそれはこれから国を担うべき若者たちがそのほとんどでした。こうして結果的には国が亡ぶほどの打撃を受けて敗戦という形でその戦争は終わったのでした。