いろんな事が有りすぎた!占領下から独立へ、混迷の時代

敗戦から日本はアメリカの占領下に置かれる事になった訳ですが、その時代は1952年のGHQ撤退まで続きます。GHQとは連合国軍総司令部という意味ですが、実際はアメリカ進駐軍で日本統治の実験を握っていました。アメリカは悪いのは現政権であり、平和の為の統率という名目で統治に来た訳です。現代でもイラク戦争により、サダム・フセイン政権が崩れ去った後、アメリカが臨時政府を保護下に置きましたが、GHQはその走りと言ってよかったでしょう。占領下の時代は、政権もその支配下に置かれていましたので、GHQが絶対権力を持っていたのです。

イラクへの介入でも、アメリカの外政干渉で有る事が批判されたりしますが、日本の占領も例外でなく、アメリカの世界戦略・アジア戦略を色濃く反映していた物でした。しかしその恩恵も大きかったと言わざるを得ず、前項で述べた通り、農地改革、財閥解体などは、日本単独でできたとしても恐らくもっと時間が掛ったでしょう。戦後の政権をみても一時期からは自民党の1党独裁で来ています。議会政治を取っている国で1党独裁がここまで続く国も珍しく、日本人が抜本的な改革が基本的には苦手な民族性が有る事が伺えます。そういった意味では、この占領下で下された数々の改革に意義が有った事は認めざるを得ないのです。

とはいえ、占領下当時の日本は混迷を極めていました。まず、今までアジア諸国に領土を広げていった訳ですが、敗戦により、1日でその領土を失ったわけですから、みんな急いで引き上げてきたわけです。ところが引き上げてきた人どころか国内でさえ、焼け野原でしたから、住むところ無く、その日の暮らしさえままならない人達が日本中に溢れていたわけです。そんな中、政府がどうなっていたかというと、当時の主たる政権トップはことごとく裁判で捕まってしまいましたし、新しい政権が生まれましたが、まず何から手を付けていいかわからない状態でGHQからは次から次へと難題を持ちかけられ機能していない状態でした。

もう上から下まで大混乱だったわけです。前述した通り、GHQ統治下の改革で日本が良い方向に変わった事はいくつも有ったのですが、とにかく当時の政権・権力を一回潰す事から始めていたわけなので、ただでさえ混乱している状況でそんな事をしたので国中が大パニックに陥っていると言っても良い状況でした。ともかくそんな状況下の中GHQの統治は始まっていたわけですが、GHQの統治方針というのは、まずそれまでの日本の軍国主義を徹底的に潰すという事でした。しかしこれには一つ重要な問題が有りました。それは天皇をどうするかという問題です。

というのも、GHQ、特にその統括であったマッカーサーは、天皇制が日本人にとって、非常に根深いもので有る事を良く理解しており、下手な扱いをすると、統治どころでは無くなるという事もわかってました。ある意味軍国主義の頂点にいた天皇というものをそのままにしておくわけにはいかないのですが、かといって、無くす、処罰するという事になると、日本人は非常に抵抗をするだろうという認識が有ったのです。GHQもまた日本の統治の仕方に頭を悩ましていたのですね。結局実験の無い、国に象徴であるという立場に落ち着いた訳ですが、この天皇問題については、前政権も、交替した政権の誰もが、非常に神経質に、真剣に考えていた事は確かなようです。

1952年にサンフランシスコ講和条約で日本は統治下から作りとを果たします。ここまでも長い道のりでは有ったのですが、この時決められた条約内容や、統治下でのいろいろな政策がその後の日本に大きな影響を与えたのでした。

日本史上初めての事態!敗戦とアメリカ占領下の時代

1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾が落とされ、たったその2投で30万人近くの命が奪われたと言われています。その数日前にはポツダム宣言が出され、既に日本の同盟国は終戦を決意し、日本も壊滅的な被害を受けていた為、駄目押し的な攻撃でした。8月15日には、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」で有名な天皇化からの玉音放送が流れ、敗戦が決定したことが全国的に知れ渡ったのでした。しかし、海外や、地方の戦地ではその終戦を知らなかった人も多く、現在の北方領土では、ソビエト侵攻に応戦し、8月23日まで局地戦は続いていました。

中国の満州国などでは敗戦と同時に中国共産党やソビエト兵が襲い、数千人の一般日本人が殺され、そこからの帰国は熾烈を極めました。敗戦と言っても既に当七時亜諸国を占領下に治め、街や村まで作っていた地域では、そう簡単に引き上げる事も出来なき状況があったのです。特に中国では状況が厳しく、家族と離ればなれになり、子供だけ取り残されるような事態はも発生し、中国残留孤児として、敗戦後何十年もして生存が確認できた例も少なくありませんでした。

国土は空襲・爆弾投下により焼け野原となり、若者は戦地で奪われた日本は正に壊滅的な状況下に有ったのです。ここから数年は食べるものも無く、戦地から帰ってくるかわからない家族を待ち、また戻ってきても仕事も食う当てもないという絶望的な時代でした。ようやく落ち着きをとり戻すのは東京裁判により、当時の軍事体制の主だった連中に判決が下され、新しい政権が動き始めてからではないでしょうか。

日本史を遡ってみても、日本に海外から侵攻や占領を受けた経験は一度も無かったと言える非常に稀な国でした。もちろんこれはアジア大陸の端の島国という特殊条件がそうさせたのですが、その意味では非常に恵まれた国と言えるでしょう。しかし、この初めて経験が日本に与えた影響もまた大きかったと言えますし、それは悪い意味だけでなく良い意味で大きかったのです。愛国者からすると屈辱的な意味しか持たないかもしれませんが、一つの国が内側から大きく変わる事は非常に難しい事です。革命などが無ければ変わりませんし、日本はその革命も無かった国なのです。

その後日本が非常に民主的で、経済大国として現代の形になった事と、この敗戦・占領の経験は決して無縁ではないはずです。イラク戦争後のアメリカ介入でも言われている事ですが、日本の敗戦、占領後の政権はアメリカの世界戦略・アジア戦略を大いに盛り込んだ一つの戦略の中で行われています。つまりはアメリカにとって都合の良いようにできていると言っていいでしょう。であるにしても、この占領下でアメリカが潰しきった日本の悪しき伝統、例えば地主制廃止や財閥解体などが、日本人だけの力でできていたかは疑問符を付けざるを得ません。

アメリカが占領時代に行ったことは、農地改革、財閥解体など、それまでの日本の制度を徹底的に破壊して、新たな議会制による民主制度を設ける事でもありました。そしてそれには有る程度日本人の手によって作り上げる事が出来たことも事実なのです。明治から昭和初期までの民主主義は、まだ封建制時代の風習、権力構造が色濃く残るものでした。しかしそれを壊して作り直したきっかけがこの敗戦・占領なのでした。皮肉ではありますが、この戦争によって壊滅的な打撃を受けた日本ですが、壊滅的な打撃を外から受けなければ変えられなかったものが一つ変わったという事は確かでしょう。そこを深く認識してからまた1から国を造り上げていく熱に国中が集中していく事になるのでした。


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「永遠の0」「きけわだつみのこえ」日本人の心を揺さぶる物語

結論を言ってしまえば、太平洋戦争というものはただただ無謀な戦争で、得られたものは一つも無く、失う物ばかりの戦争であり、日本にとってはもう忘れてしまいたい事件なのですが、ある意味国としての極限状態で生まれたドラマというものも沢山あったでしょう。戦争という明日生き残れるかどうかわからない状況下では全てがドラマになるのかも知れませんが、現代まで語り継がれて日本人の心を揺さぶるドラマというのも沢山あるようです。特攻隊というのもその一つで、その存在自体が劇的な意味合いを持つので、ドラマにしやすいという事も有るかも知れません。

特攻隊が悲劇で有る事は間違い有りませんが、太平洋戦争での戦死者の数の中で言えばほんの極一部の犠牲と言わざるを得ません。にも拘らず、特攻隊が戦後大きく戦争を語る時に取り上げられ、時には美化され、ドラマ化されるのは、やはり特攻隊そのものの劇的な性格と、欧米諸国には理解しがたいと思われる、日本特有の思考がそこに凝縮されているからではないでしょうか。その特攻隊の魅力に迫っていきたいと思います。

特攻隊は、正式名称「神風特別攻撃隊」と言います。海軍に所属する戦闘機の攻撃隊で、良く知られているように、戦闘機そのままで敵戦艦に向かい体当たりをしていく事を目的として作られた攻撃隊です。作られた経緯としては、戦争終盤になると、資源・人材困窮が著しくなり、戦局打開策として、非常に単純な論理、つまり、1人・または1機でより多くの敵・敵艦隊を倒せれば戦局は打開出来るという発想によって生まれたのです。太平洋戦争が始まった当初は海軍の調子も良く、連戦連勝を重ねていたのですが、段々と旗色は悪くなっていきます。

元々軍部もアメリカとの体力・資源力などで大きな差が有る事は解っていました。ですので開戦当初は、始めに打撃を与えて、多少有利になったところで講和に結び付けようぐらいな考えだったと言われていますが、始めの連戦連勝で気を良くし、国内も盛り上がってしまい、引くに引けない状況にどんどんなっていく中、戦況は段々と悪くなり、結局は資源が尽きる事がはっきりと見えてくる苦境にと追い込まれていったのです。そういう中で、気合を重んじる日本帝国軍が精神論に走っていったのはいわば必然でした。

そんな特攻隊ですが、ドラマとなるのは他にも理由が有ります。この頃になると学徒出陣と言って、普通に社会人の若者を徴兵していたのでは数が足らなくなってきたので、学生まで兵隊にしようという動きが出てきたのです。学生だからドラマになるという訳ではありませんが、国の為に学問をして、将来的には国を動かしていきたいと望んでいた若い学生たちが、戦局打開の駒として自らの意思も変えて逃れられない死に臨む姿とその葛藤がドラマにならないはずが有りません。映画化された「永遠の0」や「きけわだつみのこえ」はそういった学徒達の日記がその原作となっています。

特に、「きけわだつみのこえ」は戦場に散った学徒兵の遺書が集められたものであり、そこには当時の個々人の事情・背景の中で吐露された心情がリアルに書かれていた為、多くの読者の心を掴み、戦後のベストセラーとなりました。学生自体が当時は特権階級で有った為、すべての若者の代弁をしている訳ではありませんが、国の将来を担う気概を持って学問に打ち込んでいた学生が国と為に、戦争の1兵器として死んでいく覚悟を決めていく過程といのは確かに魂を揺さぶるものがあるのではないでしょうか。

世界と日本が戦争1色になった時代

2・26事件という軍事クーデター事件は2月29日まで3日間続き、政府関係者の犠牲者も出たのですが、最終的には天皇からの一声が有り、内紛には至らずに終了しました。しかしこの事件の本当に与えた影響はむしろこれ以降の方が大きく、この事件以後、再発を恐れた政府や軍上層部はいざという時に軍部の言う事を聞いてしまう弱腰の政権になってしまったのです。昭和に入ってから軍事政権の色が段々と濃くなって行ってのですが、これを機にそのスピードが速まったと言っても良いでしょう。2・26事件での青年将校たちの歩みがそのまま軍事政権への歩みへと繋がっていったのでした。

昭和10年を過ぎると満州国建立を通して中国と対立してきた日本は中国との全面戦争に突入していく形となります。ここから昭和20年の終戦まではずーっとどこかで戦争を続けているという戦争1色の時代となっていきます。中国を巡ってロシアや中国での覇権を強めていたイギリス軍と戦い、当然中国とも戦争をしました。また東南アジアに領地拡大の為、どんどん進出していった日本は、もともとそこを植民地としていたヨーロッパ諸国の軍隊とぶつかることになります。当時日本がアジア諸国で唯一欧米・ロシアに軍隊で対抗できる勢力で有ったという事実も日本に引くに引けない姿勢を取らせていく事になるのです。

日本にとっては、アジアに乗り込んでくる欧米・ロシア諸国との、アジアを守る戦争でも有ったのです。また資源エネルギーという問題有りました。太平洋戦争がいかに無謀な戦争であったかを議論する際に良く出て来る話ですが、そもそも日本国内には欧米列強やロシアを戦争できるほどの資源エネルギーがなかったという話です。特に一番重要となる石油に関しては、ほとんど国内では取れず敵国となるアメリカから買っていたという事実がいかにこの戦争が無謀であったかを物語っています。

その為、日本はアジア諸国に資源エネルギーの確保をする為に領地拡大をしてかなければならなかったのです。戦争終盤に近付くにつれ戦争に使う金属が段々と不足して、最終的には国民が生活用品として持っている金属類やお金の鐘までも兵器用の資源として収集した事は有名な話ですが、そこまで日本の資源は尽きて、文字通り国を上げての戦争になっていったのでした。

昭和12年から始まった日中戦争をかわぎりにアジアを巡る覇権争いで欧米・ロシアとなし崩し的な戦争に突っ込んでいく訳ですが、ここから昭和20年の終戦まで日本にとっては泥沼のような戦争が続きます。第2次世界大戦と言われていたこの時代、戦争をしていたのはもちろん日本だけでなく、ほぼその当時主要な国々であったほとんどの国が戦争をしていた時代でも有りました。しかし1940年ごろになるとだんだんと世界大戦の構図もはっきりとして、後から見れば収束の予想図も見えてくる状況になっていきます。

工業力・産業力・情報力・軍事力など総合的な力を着々と付けてきたアメリカがその頃になると主役に躍り出てきたと言って良いでしょう。段々アメリカを味方につけていった所が有利な兆しを見始めていたのです。後々考えると実に戦略的にアメリカは戦後の覇権争いの事も含め、この大戦に加わり、その戦果を一番獲得したわけですが、その当時、その事に気付いているのは極わずかでしたし、日本はその流れを読むことができませんでした。

トータルすると300万人~400万人がその戦争の犠牲となったと言われています。しかもそれはこれから国を担うべき若者たちがそのほとんどでした。こうして結果的には国が亡ぶほどの打撃を受けて敗戦という形でその戦争は終わったのでした。

驚き!軍事クーデターは日本にも有った

昭和の幕開けは実に不穏な空気で幕開けしたわけですが、そこから昭和の前半部分、昭和20年の終戦までは、ひたすら戦争をし続けた20年と言っても良いでしょう。言葉通り、国を上げて戦争をしていたと言っても過言では有りません。その背景として、世界的な帝国主義が邁進する植民地政策が有り、その中で起きた世界的な恐慌・不況が有った訳ですが、国内ではその不安からくる不満は当時の政治に向かい、そのエネルギーは、貧困にあえぐ農村出身が多かった軍隊の青年将校達の間に蓄積されていきました。

そんな中、民間人が起こした血盟団事件などのテロ事件は青年将校たちを大いに刺激しました。それは代表的な軍事クーデター事件、5・15事件、2・26事件と繋がっていくのです。現在でもアジア諸国や東欧諸国で軍事クーデター事件が話題になる事が有りますが、日本でも実はそういう時代があったのですね。ではその5・15事件、2・26事件を背景と共に追っていきましょう。

始めに触れましたが、軍事クーデターの背景として影響が大きかった事柄として、国内の不況、貧困にあえぐ農村という事がありました。昭和5年ごろになると工業・農業共に不況が直撃し、都会では失業者が続発したが帰る故郷にも食い扶持が無く、一方農村では次男・三男・女子は口減らしの為、軍隊へ送られたり、女子は都会身売りされたりという事が日常的になっていった。そういう農村の次男・三男たちが軍部に入り、政治の腐敗を知った時、これは世の中を変えなくちゃいけない、という考えに繋がっていくのはそんなに不思議な事じゃないですよね。

軍隊という力を持った中にいるからこそ、自分達が出来る事が有るという考えに繋がったのですね。実際に経済界や政治家の中で、テロ事件が国内で発生するようになったから、軍部の中の青年将校達に向けられる疑念は当時有ったようで、政治家・経済界のトップは軍部上層部に対して経済的な援助などを行い、それを抑えるような措置を取るよう取り計らっていたという事実が多々あり、昭和5年頃になると、そういった軍部クーデターが起こるんじゃないか、という不安、雰囲気はすでに出来上がっていたようですね。

そういった不穏な空気の中起きてしまったのが5・15事件です。他にも直接原因となるような事件が有った訳ですが、ともかく現政権への不満というのが引き金であった事は間違いありません。昭和7年の5月15日に時の首相であった犬飼毅首相を陸軍と海軍士官が襲い殺害をしたのです。今では首相を軍隊の士官が襲い暗殺するなんて事は日本では考えられない事ですよね。とにかく、この事件の衝撃・影響は大きく、直接的な暴力が世の中変える手段として効果的であるという事が特に軍部内の血気盛んな若者たちに認識されたという事が大きかったのではないでしょうか。

時に満州国が建立され段々発展をして言ってる時代でした。国内では不況で経済が立ち行かない日本を、軍隊ががんばって国外に日本の利益に繋がる領土を広げていっているおかげで解消していっているという図式が何となく広がり、青年将校たちの行動は時に過激だが日本の事を思っての事である、という認識が、これも何となく広がっていき、軍部クーデターの下地はできあがっていたのですね。昭和10年2月26日に日本史上最大の軍事クーデター2・26事件が起こります。総動員1500名弱、当時の政権の主要人物を次々遅い、3名を暗殺、1名重傷という政権を瓦解させる事件が起きたのです。

事件は後に収束しますが、これをきっかけに軍部が圧倒的な力を持つ軍国主義の国へと突っ走っていくのです。

昭和初期を彩る魅力的な作家たち

昭和初期は文学が活発な時期でした。作家が小説を書く事自体現代とは変わりませんが、その当時作家が社会的に担っていた役割は大きく違っているのでしょう。作家は時代の先駆者であり、オピニオンリーダーであり、文化人でありました。小説を読む事自体地方に至っては今より普及率が無かったかもしれませんが、その影響は大きかったと言えるでしょう。有名作家の1人太宰治などは時代の寵児でしたが、太宰の小説を読んでいる事自体が何か文化人になったような気にさせてくれるぐらいのステータスは当時有ったようです。

太宰治や芥川龍之介など現在では古典ですが、勿論当時は、新しく、流行的なものでも有りましたし、近代小説自体、日本ではそんなに古いものでは無く、世間一般的に広がっていたのは明治から大正にかけて活躍した夏目漱石・森鴎外などがきっかけとなっています。明治で西洋文化が幾分か入ってきて、大正デモクラシーを経て、民主主義であるとか、自由といったような思想が海外から入ってくるにつれ、民衆の間でもそういう気分が高まり、新しい思想を取り入れた物が流行った時代でも有りました。

自分達でそういった先駆けの思想や情報が得られない大衆は、作家たちの小説にそれを得ようとしていたのです。時代・体制が大きく変わりゆく節目で出て来る作家たちはそれだけ背負っている者も大きくなるので、時代が変わってもずっと残る作品を作れる力量が備わるのかもしれません。作家のジャンルというのもこの頃多分に派生しています。夏目漱石など自由主義を継承する白樺派で有ったり、谷崎潤一郎など耽美小説を書く耽美派、ジャンル化を嫌い、無勝手風に書く無頼派、労働者階級を描写するプロレタリア文学などが様々なジャンルが生まれています。

その中でも昭和初期を代表し、また象徴している作家と言えば、芥川龍之介・太宰治でしょうか。学校でならという理由も有るでしょうが、知らない人はまずいない、という有名作家ですよね。芥川龍之介は夏目漱石にも見いだされ、若いころから文学界のエリートコースを進んだ人でした。それはいわば、それゆえにそれまでの日本文学界の道筋を引き継いだ路線と言えるかもしれません。もちろん彼独自の感性が作品に大きく影響していますが、エリートコースに乗った彼は、ある程度、既成路線を歩んだと言えるでしょうし、その頃の風潮などをより良く感じられる作風と言えるかもしれません。

また芥川はその死が良く話題になります。最終的に自殺をしたのですが、彼が口にしていた「ぼんやりとした不安」というのが、自殺に繋がったという説が多いのですが、それを時代背景と繋げて解析される事も多いようですね。一方、太宰治ですが、彼も生前高い評価は得ていましたが、芥川と比べると評価を得るのに時間が掛った作家でした。また彼は周りの雰囲気や時流の事柄に影響を受けやすい人だったようで、その時々で様々な作家・作風に影響を受け、傾倒し、また当時、学生や文化人と言われる人々が傾倒していた政治活動に同じように傾倒していったようです。

特に当時流行であったマルキシズムという現在の共産党の基本理念になっている主義に傾倒し、実際活動員になっていたようです。太宰は、当時、坂口安吾や織田作之助などと無頼派と呼ばれ、新しい潮流として迎えられていたようです。つまり太宰はその時代に影響を色濃く受け反映していた時代とも言えるでしょう。この二人をいろいろ調べていくとその繋がりから当時の文学界の全体像も浮かび上がってくると言っても過言では有りません。そういった意味でも代表的な作家と言えるでしょう。

信じられない!日本にも昔はテロリストが沢山いた?

今ではテロリストというと、他の国の出来事のような感じがしますが、実は日本は昭和初期の段階ではいわゆるテロ行為というものが多くおこなわれていのです。そしてそれが2・26事件という軍事クーデターまで繋がる結果となるのです。2・26事件は軍事クーデターとしてあまりにも有名な事件ですが、それに至るまでに軍事テロも発生していますし、民間のテロ組織が起こしている事件も有ったのです。その背景を話しながら、民間テロの中でも一番有名な「血盟団事件」に繋げ話をしていきたいと思います。

まずテロ行為が行われた背景として当然、政治や社会への不満が有りました。その時代背景を見てみると、戦後恐慌・世界恐慌からくる経済の悪化がありました。その影響は工業にまず現れ、多くの企業倒産や大々的な賃下げなどに繋がり、失業者も溢れ出ました。また農村での窮乏はもっと厳しく、餓死者が出たり、口減らしの為に子供を売るような事まで日常的に行われた地域もあったようです。そのような国民全体が窮乏に陥っている中でも政治の腐敗は止まらず、賄賂収賄事件や利権を通した恫喝事件などが相次ぎ、国民の政治不信は極限まで高まっていったのです。

特にのちの軍事テロが横行した背景として、軍部の青年将校たちに農村出が多かったという事が有ります。農村で食い扶持の無い次男・三男坊などが職の当ても無く、軍部に入っていったという事情が有り、受け皿ともなっていたのです。軍部内で自分の境遇と同じような人たちと出会い、都市では同じような事情で売られて女郎になっている人たちと出会い実際に行われている政治の腐敗を目のあたりにして、世の中を変えなくては駄目だという共通認識を持って行った事が一連のテロ・クーデター事件の温床として有った訳です。

まず行動を起こしたのは民間の方でした。標的になったのは、経済界の大物や政治家です。昭和初期の資本経済はまだ現在のように労働法なども整ってなく、劣悪な労働環境や一方的な賃下げなどが罷りと負った時代でもありました。労働者が貧困にあえいでいるにも拘らず、生活を変えず、私腹を肥やす事に専念する資本家は労働者の敵でした。実際にこの頃の賃下げなどは恐慌の影響が有ったとはいえ一方的に行われ、解雇に関しても方が整っていなかった為、一方的に首にもできたようです。

その中で起きたテロ事件が「血盟団事件」でした。この事件は1932年(昭和7年)に起きた事件ですが、実際に時の大政党民政党の幹事長で有った井上準之助、大財閥、三井財閥の総師であった団琢磨がその標的となり、暗殺されました。無差別テロで無く、標的をあらかじめ決めた計画的なテロ事件で有りました。事件の中心となった血盟団という政治結社を組織していたのは井上日召という僧侶でした。彼は満州鉄道などで勤務後帰国し住職となっていたが、現在の世情を憂いている中、後の5・15事件の首謀者の一人である橘孝三郎などと出会い、暴力による社会改造以外に手段は無いという判断に至ったと言われています。

大物2名を暗殺して終わった事件でしたが、「一人一殺」と称し、他に当時の2大政党の重要幹部を標的にしていた事などは「テロ」という意味では非常に大きな成果を上げ、財界・政治家を大いに震わせました。この事件が不満を抱えた青年将校たちに与えた影響も大きく、その後の軍部クーデターの直接原因では無いにしろ、間接的な影響を与えたことは否めません。武力・暴力を使ってでもこの社会を変えていかなければならないという空気が蔓延しはじめていたのでした。

今では考えられない壮絶な資本主義、その下での労働環境

現在では働くにも、人を働かすにもきちんと労働法が有り、例えばそこで労働時間の制限で有ったり、差別の禁止や、解雇に関する規制なども盛り込まれています。しかし日本において労働法がきちんと成立したのは戦後になってからであり、戦前においては工場法というものがありましたが、労働者の保護という観点からすると法律としては不十分なものでした。例えば昭和初期において労働者の最低年齢制限は14歳未満は禁止されていましたが、小規模工場は例外であったりとまちまちでした。

また長時間労働も現在では18歳未満の人に深夜労働・8時間を超える就業はさせられないという規則がありますが、当時は15歳未満の女子については12時間を超える就業、深夜労働はさせられないという条件でした。その条件も繊維業界からの猛反発を受け、実質機能していないという体たらくでした。最近では群馬県の富岡製糸場がブラック企業だったのでは?という疑惑が話題になっていましたが、富岡製糸場は当時、官が主体となって模範工場として運営した工場であり、労働条件も高待遇で、労働環境も進歩的で非常に良かったというのが事実のようです。

それよりも民間の工場の方が、その労働条件において、現在からみると非常に劣悪な条件だったようです。また当時は労働組合法などという法律も無く、労働争議は多々起きていましたが、それも適法ではなかったのです。また争議の鎮圧に、企業側も時として暴力団などを使った暴力行為で抑えていたという事例も多々あったようで、労働争議も命がけで行っている状況でした。この命がけで行う労働争議の労働者側からの要求の内容自体が、当時の労働環境・待遇の劣悪さを物語っています。

例えば有る紡績会社の労働争議における労働者の要求として、寄宿者の①近親者が病気または危篤なった時は帰郷させる②近親者との面会を自由にする③休日はもちろん、休日外でも外出を自由にする、などが有り、待遇面でも昼休憩は30分以上与える事、などと、今考えれると至極当たり前の事が命がけの要求としてあげられていたのです。労働条件が劣悪であったその背景としては、もちろん恐慌による不況などで企業側も困窮していたという事が有りますが、一方で企業利益を上げる為に労働者に関する費用を抑える必要が有り、法的な規制も無かったという事が挙げられます。

また当時資本主義も発展途上段階であり、そういう段階でありがちなのですが、資本家が労働者の生活など顧みず、利益確保に走っていたいという事が挙げられしょう。その挿話として、ある財閥の経営者が、賃下げを行う理由として、人間が1日に必要な蛋白量は30gであるから、米と豆腐だけ有れば良いのだからもっと賃下げができるという事を発言したという事が記録として残ってます。その通りの事を言ったのか真実は定かでは有りませんが、似たような感覚は当時の資本家たちにはあったのではないでしょうか?

戦争に突入してからは国家存亡の危機に有ったので、労働者の条件など顧みる余裕など無く、日本はもっと困窮した状況に陥れらるわけですが、労働者の条件の改善や法制定などは結局、敗戦によりアメリカの占領下、アメリカの進んだ資本主義・民主主義が導入されてからの事でした。この点で見ると国民が救われたのは敗戦に依る事を見ても良いので、なんか皮肉なものですね。

昭和はその幕開けから激動の予感に溢れていました

昭和は1926年から始まる訳ですが、その幕開けは、激動の時代が始まる前兆が十分に感じられる出来事がたくさんあったのです。まず大正から昭和に変わる時代は恐慌の時代でした。恐慌とは経済変動が大きく下降する事です。影響として物価が跳ね上がり、紙幣の価値が下落するという現象が起こります。この現象は人々の生活を非常に不安定にさせ、国民的な不安が社会に蔓延したのです。この恐慌の質の悪い所は、全世界で起きているという事でした。全体的に落ちているので恐慌から抜け出すようなきっかけをつかむ事が非常に難しいという事です。

恐慌の原因としては第一次大戦の終結が影響しています。戦争が終わったことは良い事なのですが、それまで戦争特需で戦争物資の製造などで工業が盛んになっていたのですが、それが無くなった為、需要減で工業が落ち込んでしまった事です。帝国主義が主流となっていたこの時代に、その恐慌が蔓延する事により、国々は更に、植民地を増やして少しでも自国の経済を保とうと領地を広げていく方向へと突き進むきっかけとなりました。もちろん日本も例外ではなく、帝国主義の列強と言える、欧米諸国・ロシアに負けないよう軍事国家として強化していく流れとなっていくのです。

その後、世界中が戦争となり、日本国中が無謀な戦争に巻き込まれていく事になるわけですが、昭和の幕開けから既にその予感はあったわけです。ではその幕開けを象徴するような事件をいくつか紹介していきましょう。太平洋戦争や、昭和初期の軍事政権になっていく、その過程を説明する時、その遠因や、その潮流の元になったものとして必ず出て来る事件で、「満州事変」というものが有ります。教科書にも必ず載っていますし、学校で習っているので皆さん知っていらっしゃるのではないでしょうか。

まず事件の背景として満州国と、関東軍が、一つキーワードとして出てきます。昭和初期を語る時欠かせないものですが、そこにも恐慌・不景気というものが大きく影を落としています。その不景気も地方の農村では本当に深刻で、餓死者が大量に出たり、子供を育てれないため、売りに出しているという事が日常的に行われているほど事態は悪化していたのです。満州国建国というのはその打開策として国を上げて国策として進められていた計画だったのです。つまり満州国は国内で職にあぶれ生活できない人達が満州国に職と生活を求めた希望の国だったのです。満州とは中国の北側・モンゴル地区に有り、ロシアの南下に対する緩衝地区ともなる要地でした。

そして軍隊も国内のあぶれた労働力を吸収する風呂敷になっていたのです。つまり満州国というのは国内の不景気で行き詰った空気を切り替える希望が託されたものだったのです。そういう背景のあった満州国で起きた事件が満州事変です。満州国建国と言っても日本単独でできるものでは無く、あくまで内地、中国の協力と了解を有る程度得る事が必要です。地方軍閥というものがその際、協力者として交渉相手となるのですが、邪魔な存在となった交渉相手を暗殺しようと電車爆破をしたのが満州事変の概要です。

その事変の主犯格こそ関東軍であり、関東軍が独自判断で勝手に起こした事件であったことが後にわかっています。国内の指令が行き届かなくなった関東軍の独走にこそ、その後の日本の軍事国家への邁進と軍事の独走・迷走に繋がる大きな要因となり、そしてそのきっかけとなるのが満州事変なのです。この後、日本国内でも軍がいろいろと事件を起こし、最終的にクーデターを起こす事になるのですが、その潮流を遡っていくと満州事変が有り、関東軍と満州国建国に繋がっていく訳です。

昭和は驚きの連続!昭和は日本史の中でも激動の時代だ!

歴史の話で日本の国民性を良く表している話として時々語られる事ですが、日本は江戸時代という武士の時代が終わった時、世界は近代兵器を生み出し国力を上げ植民地争奪戦の時代になっていました。ペリー黒船来航で悠久の江戸時代から目覚めさせるられるのですが、その時日本は刀や時代遅れの鉄砲を武器にしているどう考えても植民地の対象となるような小国でした。そこからわずか40年ちょっとで日本は世界屈指の海軍を持つロシアと戦争し勝利するという大偉業を成し遂げる国にまで造り上げます。

しかしそこから40年で日本自体を滅ぼしかねない戦争を行い、本当に滅びかねない焼け野原の事態までになってしまいます。しかし再びそこから40年で奇跡の復興を遂げ、世界2位の経済大国まで上り詰めます。そしてまたそこから40年でバブル崩壊という危機的状況に追い込まれてしまいます。良くも悪くも、国民が一丸となって取り組む事ができる国民性が有るという事でしょうか。まあ国民性はともかくとして、先ほどの話の後半、日本が滅びかねない戦争に突入し、実際滅びかけ、そこから世界2位の経済大国まで登りつめる時代。それが昭和です。

昭和の始めから時代を生きている人は本当に夢でも見ている心持になるのではないでしょうか?実際昭和後半に生まれた私のような人間からすると昭和初期の話なんて本当にそんな事が有ったんだろうかと疑いたくなるような話ばかりです。日本史の中でも昭和というのは激動の時代なのですね。それはいろいろな視点から見る事でいかに激動の時代であったかが理解できると思います。まずは経済構造や体制からですが、経済構造がやはり人々の生活・体制という所に大きく響いてきます。昭和初期日本は農村社会でした。

もちろん工業も有る程度発達段階には有りましたが、この頃の工業は戦争景気の特需による輸出が中心で、内需があまり無かった為、継続的な安定需要が無かった為、産業として発達しませんでした。なぜ内需が少なかったかというと日本全体に占める労働人口の割合がまだ農業従事者・つまり百姓多く、しかも百姓も地主制の下で貧困にあえぐ小作人たちが中心でしたので、内需が拡大する事は無かったのです。こういう構造的な負のスパイラルが有り、昭和初期の日本は全体的に非常に貧しかったと言えるようです。

日本が変わり始めたのは戦後、戦争・戦力を放棄し経済成長に邁進し、工業国へと変身を遂げ、その変化により産業・経済の構造変化を経てからです。それまでは現在の発展途上国の国政とそれほど差は無かったと考えてよいと思います。人口増加も大きく影響しています。昭和初期の時点で5500万人ぐらいで有った人口は昭和の終わりの時点で1億2千万人まで膨れ上がります。そのような変化は、国民の実生活に大きく影響を与えました。昭和の時代のなかで人口も増え、構造的にも変わった日本は、初期と後期では全く別世界になったのです。

もちろん世界情勢の変化も大きく影響しています。昭和初期の時代は世界中が戦争をしていた世界戦争時代です。日本が軍事国家だった時代では有りましたが、なにも日本だけでなく、世界中が軍事国家になっていたといっても過言ではないのです。第2次世界大戦後は、冷戦や東欧・イスラム国の局地戦など戦争は継続していますが、世界的には戦争が少なく平和な国々が増え、民主主義・資本主義が邁進する経済の時代へと変わり、物質的に豊かな世界が急速に広がっていったのでした。つまり日本国内の事情だけでなく、日本を取り巻く世界の情勢も大きく変わった時代だったんですね。